¿De qué?

martes, 15 de marzo de 2011

La peor tragedia desde Hiroshima / 彼は我

スペイン語のタイトルはEl País紙14日付の記事の同タイトルから。

東北地方太平洋沖地震の発生から3日が過ぎた。備忘に初日のことを少々: 11日は昼前から浅草で寄席を聴いていたところ地震に遭遇。初めの揺れが収まって一度は劇場に戻ったものの,次の大きな揺れがきたときに外へ避難してそれきり劇場を後にした。喫茶店,バーミヤンと場所をかえながら情報収集とその後の行動に備えて腹ごしらえをして,公共交通機関がほぼマヒという状態が続いていたことから夜9時前に徒歩で帰宅することを決意。少し道を間違えながらもほぼ水戸街道(国道6号)沿いに歩いて2時間半くらいでアパートにたどり着く。途中でコンビニに寄ってホッカイロを買うついでにトイレにも行く。このとき,ファミレスに携帯電話を忘れてきたことに気づく(翌日の昼過ぎに無事取り戻す)。荒川を渡る橋を越えるときが寒さの最高潮だった。ともかく無事に帰宅した。しかし6号を離れるまでともに歩いて来ていた人の多くは,まだまだ先を目指しているようだった。その先の長さからか,途中で休憩している人の姿も。

その後,Facebookやメールなどでスペインの知人を含めた友人から安否確認のメッセージをもらう。気にかけてもらえてありがたいことだ。大学のスペイン語の友人たちの無事も今日まででほぼ確認できた。会社に泊まった者や3時間半かけて徒歩で帰宅した者もいた。福島(須賀川市)に引っ越したSちゃんは水が止まり,今日になって一時的にでもようやく出るようになったと聞く。さらに愕然とさせられたのが,わずか隣の県に住む者は,液状化現象を目の当たりにしているということ。電車で少し行った先には,土地が埋め立てでできているばかりに,非日常的な惨状が広がってるだなんて。

そしてその惨状は中心的被災地においてはなおのこと。東京の一地区に住む僕には,ほぼ日常とかわらない生活が戻りつつある。今日は久しぶりに日雇いバイトに出かけたが,行きも帰りも運のいいことに電車はさほどの遅れもなく乗ることができた。しかし,休憩中に見たテレビに映し出される非常事態がまぎれもない現在の日本が直面している国家的危機なのである。すでに二千人近くの人の死亡が確認されているという。行方不明者は数知れない。なんだかやりきれない気持ちでいっぱいになる。むしろいつもどおりの生活風景が違和感をもって立ち現れる。そうして帰宅してとあるリツイートから東京都知事の大震災に対するコメントを読んで,その見当違いな発言に憤りを感じる(アサヒ・コムの記事にもなっているとのこと)。そこには発言者本人の存在がカウントされていないようにすら感じられ,あたかも自分は「(我欲というアイデンティティーをもつという)日本人」ではないような物言いである。そしてこの天災を「天罰」と称したらしいのだが,この瞬間にも様々な方面で被災地の救援救助を行っている人々,復旧活動にあたっている人々を前にしてどうしたらそんなことが言えようか。

バイト先でのある人いわく,スーパーで品薄・売り切れ状態が続く中,お年寄りがわれ先にと商品を手にする姿を見たと。それを,さもしい老人だ,と非難するのであれば簡単なこと。問題はなぜそのように振る舞うのか・振る舞わざるをえないのか,だろう。震災による影響が直接の原因ではない。おそらく,周囲の空気が変な切迫感に包まれている,それがお互いに伝播してしまい焦燥感を駆り立てられ節度ある行動を妨げているのだと思う。元来,お年寄りは弱いものである(体力的には当然)。モノが少なくなって奪い合うまではいかなくとも足早に近づいてみなが必要とするモノが一気に買い上げられていくような状況を見せつけられれば,次に目にするのはそうした状況の目撃者による再生産の姿である。こういう事態だからこそ,「痛み分け」の精神が大切なのではと考えるのである。

この記事の日本語タイトルは,厄災を間接的に経験する被災地から離れた人心に焦燥感を植えつけたいわけではもちろんなく,寛容をもって弱きものの立場に寄り添いたいという想いからであり,たとえば村上春樹のエルサレム賞のスピーチ文を思い出すようなものである。

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