¿De qué?

sábado, 17 de diciembre de 2011

Frío invernal / 寒さに震える、これすなわち震寒といふなり?

最近、Dropboxを導入してすごく重宝している。調子に乗って日中にiPhoneで書き留めたメモを日記として久しぶりにここに記す。(9月末以来だから2カ月以上ぶりですね。)

学院の授業は今月始めで終わってるので、お昼を町田で済ませたあとは夕方からのスペイン語教育研究会に出るため上智大学に直行。
10号館にベレン人形belénが飾られてると、ついさっきゲトした情報を頼りに、まずは正門からその方を目指すと途中でなにやら古本が並べられているではないか。どうもチャリティーバザーといった風で一角には小物類もある。無論しばし寄り道して物色する。なんとソフトカバーの本は全て200円とのことだったので、とうに本棚には到底収まり切らない本が積まれた部屋と相談して絞りに絞った次の三冊を購入:

-- Berger, Frances de Talevera (1990): ¡Mierda! The real Spanish you were never taught in school, New York, Plume.
-- Manteca Alonso-Cortés, Ángel (1981): Gramática del subjuntivo, Madrid, Cátedra.
-- Sperber, Dan & Deirdre Wilson (1995): Relevance. Communication and Cognition, Second edition, Oxford, Blackwell.

ちょうど一週間前は、月一の研究会以外で久しぶりに外大に行って、そのときには渡辺万里 (2010)『スペインの竈から―美味しく読むスペイン料理の歴史』現代書館なんて本を気まぐれに買った。寝読で読みたいのだけど、まだ先客(清水憲男(1990)『ドン・キホーテの世紀』岩波書店)を接待中なので、しばらくはお預けなのである。

研究会から家に帰ると22時過ぎ。今夜は寒さが一段と身にしみる。そうこうしているうちに、来週にはもう冬至なのである。闇が占める時間が頂点を迎えるのを境に、ふたたび陽の当たる時間が徐々に増していく。自分の研究ペースもそれと呼応するように進めていきたいところなのだが、はたして。

jueves, 22 de septiembre de 2011

"¡Odaiba (Tokio) se convierte en México!"「お台場がメキシコになる!」, del 23 al 25 de septiembre de 2011

「フィエスタ・メヒカーナ2011(第12回)」の告知・宣伝である。
ひょんなことから運営ボランティアスタッフとして参加することになったので。
詳しくは上記のリンク先を参照してください。歌あり踊りあり民芸品あり,そしてなんといってもたくさんのメキシコ料理とビールありですので,ぜひ遊びに来てくださいね。

さて,昨日は台風で後期授業初日が休講に。大学に向かう途中で教務の方からその旨のご連絡をいただいたのだが,ひとまずそのまま大学に足を運んだ。メールボックスをチェックしていたら学生が一人,集中講義スペイン語の課題を出しに来てくれた。お返しに「フィエスタ」の案内チラシをあげる。
野暮用で青砥さんの研究室を挨拶がてらに訪れると,相澤正雄・青砥清一『アルフォンソ十世賢王の七部法典 第一部第四篇(スペイン王立アカデミー1807年版) 逐文対訳試案、その道程と訳註』(私家版,2011)青砥清一(編著)『スペイン語検定対策3級問題集(CD付)』(白水社,2011)の二冊をご恵贈いただく。

さかのぼって月曜の昼には大学学生ボランティアグループと「フィエスタ」実行委員の方との打ち合わせに参加。その折に柳沼先生から国本伊代(編著)『エリアスタディーズ91 現代メキシコを知るための60章』(明石書店,2011)をご恵贈いただいた。日墨政府間の交換留学制度(当時は「日墨研修生・学生等交流計画」という名称も昨年から「日墨戦略的グローバル・パートナーシップ研修計画」となり,内用の若干変更された模様。応募資格の年齢の下限が「22歳以上」と引き上げられたことは残念の一言)で2001年にメキシコを訪れた以来となってる身としては,去年の2010年に独立運動勃発から200年目,メキシコ革命勃発から100年目という節目にあって同国にて盛大な記念行事が催された様子が,表裏の表紙やその折り返しに写真で紹介されているのを見れるだけでも嬉しい。
今回の「フィエスタ」ボランティアが,ある意味でこの留学に対する恩返しの一つになれば幸い。

ところで勉強用に今井むつみ・針生悦子『レキシコンの構築――子どもはどのように語と概念を学んでいくか』(岩波書店,2007)を読んでいるところ。その関連で今井むつみ『ことばと思考』(岩波新書,2010)をインターネットで購入。博論執筆は進んでいない。
しかしそんなことをよそに,師匠からは毎週の出講日や研究会などで会うたびにいろいろな本をいただいているので,そのリストも作りたい誘惑でいっぱいな今日この頃。

viernes, 5 de agosto de 2011

いろんな感動,一つの自己嫌悪

8月3日(水)。 『コクリコ坂から』(宮崎五郎監督,2011)を作品の舞台である横浜で観てきた。しかも映画にも登場する桜木町駅そばの映画館で。現在の横浜に劇中の町並みや風景を見て取ることはもはや難しいのだけど,それでもいいものである。桜木町駅構内には駅舎の変遷をたどる写真が飾られていて,映画を観る前からなんだかもう物語が始まっているような気分になった。物語は女主人公の海(メル)が朝食の支度をする場面から始まり,途中彼女が通う高校の洋風建築物を大掃除する場面が一つの山場となっている。それらを観て,これはまさに内田センセが指摘する村上春樹の文学の世界性である「料理と掃除」ではないですかと,一人感激するとともに,宮崎五郎監督は,いくら周りにネガティブな批判をする者がいたとしても,「世界のジブリ」の一翼を担うために正しい道を歩んでおられるのでしょうと確信もするのであった。

ところで,一つ大きな見間違いをしていたことに家に帰って気づいた。作品の中で一つの物語のカギを握る,先に触れた洋風建築物であり文化部部室棟である「カルチェラタン」。この名前が文字として何度か画面に出るのだけど,その際になぜだかCartier Latinと終始僕の目には映っていたという話。正しい綴りはQuartier Latin。フランス語。「ラテン語の地区」というのが直訳。フランスはパリの5区と6区の一部あたりの地区を指すそうで,位置的にはルーヴル美術館やノートルダム大聖堂からみてちょうどセーヌ川の南側あたり。ちょっと重なるかどうか微妙なアングルだけど,2008年にパリを訪れたときにセーヌ川にかかる「新橋」Pont Neufを渡るときに撮った一枚を(奥に写るのがエッフェル塔かと):

「カルチェラタン」はスペイン語で,たとえばWikipediaには,Barrio Latinoと紹介されている。フランス語のquartierにあたるcuartelという単語もあって,スペイン語でも「地区」という意味はあるようだけど,日常的にはこの意味で用いられている印象は受けない(あくまで印象の話で,実際はわからない)。手元にある西西辞典(SALAMANCAとCLAVE)にはそれぞれ第一義に「兵営」の意味が記載されている(もちろん「地区」の意味の記載もある)。ちなみに,スペイン語でいわゆる日本語の「カ行」は基本的には子音字cが担うが,[ke],[ki]の音にはce,ciの代わりにqu-の綴り字が現れてque,quiとそれぞれ書かれる(外来語はもちろんこの限りではない)。たまに学習の初期段階で,cuándo「いつ」やcuatro「4」っていう語に対しても過剰に反応してquándo,quatroと書く学生を見受ける。フランス語はまったくわからないのだけど,フランス語でca-/qua-の発音は同じなのか違うのかが気になる。
一方で,僕が勘違いしていた綴りは宝石・時計店で名を馳せる「カルティエ」の方。別にここの品なぞ一つも持っていないのだけどね。最近,疲れ目なのか,また視力が落ちたかなと思うことがときどきあるのだけど,そのせいにしておきたい。(とくに最近は暗がりでモノを読むことをすることが多くなった。これはよろしくない。)やれやれ。

miércoles, 3 de agosto de 2011

本に縁のある日

前期授業が終わって一週間。気づくと8月に突入している。前回ブログを書いてから丸ひと月以上が経過してしまった。ひたすら,3年半ぶりに再開した非常勤生活の授業に追われる数か月だった。

そんな前期も今朝でどこの学校の成績も提出し終えて一段落。野暮用と勉強を兼ねて月一の研究会以外で外大に久しぶりに足を運ぶ。片道約2時間かかる距離だけど,行ってみるとすごくいいことがあった。
図書館の2階,1階から入って階段を上った右手すぐのところにある自由閲覧室に廃棄となる図書がご自由にどうぞとなっていた。ので以下の5冊をいただいてきたという次第:
  • R.ヤーコブソン,1973,『一般言語学』(川本茂雄監修),みすず書房
  • J.H.グリーンバーグ,1973,『人類言語学入門』(安藤貞雄訳),大修館書店
  • W.L.チェイフ,1974,『意味と言語構造』(青木晴夫訳),大修館書店
  • J.L.オースティン,1978,『言語と行為』(坂本百大訳),大修館書店
  • 柳父章,1976,『翻訳とはなにか 日本語と翻訳文化』,法政大学出版局
入館ゲート付近には『ピエリア2011年春号 発見と探求への誘い』が置かれていたので一部いただく。主に新入生・在学生に向けた読書案内冊子で毎年の春に発行,これが通巻第3号だそうな。ちなみに僕の出身・神田外語大学にも『本はおもしろい』という名で同趣旨の冊子がある。こちらは,同大学図書館のサイトによれば,2003年から発行開始となっている。別冊が4冊出ているので,あわせると13冊に上る。

『ピエリア~』を昼食後にコーヒーを飲みながらいくつか拾い読みする。今まで名前は見聞きしていたものの実際にはまったく面識のない先生方の文章。なんだか本人と面と向かって初めての挨拶をするようでドキドキするような(?)感覚。「ホネ・ノ・アル新書」というコーナーの巻頭言には,今福龍太「『新書』再発見に向けて」。岩波新書と光文社カッパ・ブックス版をドン・キホーテとサンチョ・パンサに例える件にはなんだか親近感のようなものを覚え,次の件には思わず同感(できるほど本は読んでませんが):
 けれどいま、新書に託されてきた知性の歴史が忘れられようとしている。その素朴で高邁な志が、もっぱら売上げを旨とする経済原理によって裏切られようとしている。あまりの発刊点数によって書店の棚を占拠し、あまりの種類の多さによって版元の個性やアイデンティティを喪失した本の形態――いまやそれが新書である。それは飽和状態すら超えて過飽和となり、一部では安直な編集で内容の薄い「本ならざる本」を粗製乱造するメディアに成り果てている。
[pp.20-21]
「外大生にすすめる本」コーナーの巻頭エッセイである和田忠彦「批判的思考と実践のために――美学と詩学のすすめ」は正直ちょっとムツカシイ。U.エーコの言葉も引用されてる。が、こんな巻頭エッセイに迎えられる大学の学生は幸せ者だなあなんても思ったりする。同コーナーには、大学院前期のゼミでお世話になった宗宮喜代子先生と、同後期のゼミでやはり(しかも留学に行く前の半期だけという中途半端に)お世話になった峰岸真琴先生による案内もある。前者では、少し前に読了した佐々木正人『アフォーダンス入門』(講談社学術文庫)でわりと紙幅を割いて紹介されていたダーウィンのThe Formation of Vegetable Mould, Through the Action of Worms; with Observations on Their Habitsが、後者では今の僕の移動本になってる『街場の教育論』の著者・内田樹の『街場のメディア論』(と文中には『寝ながら学べる構造主義』)が取り上げられていて、なんだか先生方が少し身近に感じられた。
ほかに言語学関連の人物による文章では、「フィールドノート――わたしの研究余話」のコーナーに音声学の専門家・中川裕による「野外調査と読書」があり、カラハリ砂漠(南部アフリカのボツワナが位置するあたりらしい)でのキャンプ生活による現地調査の厳しさとそこで精力的に活動するフィールドワーカーの姿がありありと目に浮かんでくる。そんなたくましくも「不調法な」中川先生のキャンプ長期滞在中の気分転換になる唯一の娯楽が「寝袋での読書」だそうで、「砂漠のテントの中で読むこれらの文章は、生々しい刺激に満ちていて、想像力と感受性を支配し揺さぶり、味わったことのない濃厚で甘美な精神的経験をさせてくれる。虚構の世界の出来事を綴った文字を読むことによる想像力の刺激が、こんな麻薬的魅力をもち得ることを私はカラハリ砂漠のテントのなかで学んだ」(p.53)という。続く最後の段落で、そんな環境とは対照的に日常生活に溢れる人工的刺激(映像、照明、機械・電子音、etc.)に晒されて生きる私たちは、「言語の理解・解釈の能力の一部を麻痺あるいは鈍化」(ibid.)させているという可能性を指摘する件に深く考えさせられる。

domingo, 19 de junio de 2011

曇り空の下 / Bajo el cielo nublado

午後から半日,自転車でお出かけ。
亀有駅から北側をほぼ線路沿いに綾瀬駅まで。
駅北西側を行くのは初めてで、すぐのところに古本屋があったので早速寄り道。柳田国男『日本の昔話』(新潮文庫)をお買い上げ,店を出る。
しばらくは一軒家が続きそれが途切れたかと思うと町名も西亀有から綾瀬に変わった模様(つまり葛飾区から足立区へ)。そして進むたびに「~橋」の標石がちょこちょこ現れる。どれほど川に囲まれた土地だったことかが偲ばれる。
Kameari <--> Ayase / 亀有⇔綾瀬 (1) Kameari <--> Ayase / 亀有⇔綾瀬 (5)
都立葛飾聾学校の脇道を道なりに行くと次第に左に曲がっていってそのまま南下して行ってしまいそうだったので、境四橋で右に折れ西を目指す。と、その前にそばの中華料理屋でお昼。
やがてガード下がスーパーやさまざまなお店で賑やかになってきて、そのうちに綾瀬駅前に出た。本日の目的地。その辺の珈琲屋さんに入ってずっと手つかずで放っておかれた宿題を片付ける。
夕方は綾瀬駅周辺を散策。駅の西側線路沿いに2軒の古本屋さん発見。一軒目はCDやゲームなども扱ってるいわゆる今どきの中古書店。『レジェンド・オブ・メキシコ』(ロバート・ロドリゲス監督,2003年)が499円で売られてて,前に『デスペラード』を買っていたから「マリアッチ三部作」を揃えたい衝動に駆られて一度は手にしたけどそのまま棚に戻してしまった。今思えば買っておけばよかった。二軒目はいわゆる伝統的(?)な古書店で日本文学作品を中心に狭い店内に縦に並ぶ本棚を埋め尽くしていた。ここでも何も買わず。
その角から真北に延びる道をのぞくと,奥にお寺らしきものが見える。住宅街を入っていくと真言宗の観音寺があった。門外には説明板もあって,曰く,江戸から千葉の流山に撤退することになる新選組の一隊が宿泊したとのこと。さて,そのまま駅北側の住宅街をぐるっと回って再び線路沿いの道に出て,ほぼ駅真正面辺りにブックオフがあるのをいつも電車の中から確認していたので最後にそこに立ち寄る。茂木健一郎『脳と仮想』(新潮文庫),三島由紀夫『三島由紀夫レター教室』(ちくま文庫),青池保子『アルカサル―王城― 13巻』(プリンセス・コミックス)を買う。最後のは一応少女漫画にカテゴライズされる一冊なのだけど,学部時代に師匠の授業の「雑学プリント」で知って以来古本屋で少しずつ揃えてきて,この度最終巻を100円で見つけたのでお買い上げとなった。残るは10~12巻の三冊である。
すっかり日も暮れてから帰途につく。今度は常磐線の南側。ひたすら住宅街の中を亀有駅前まで進み,あとはいつもどおりの帰路。すっかり待ちぼうけをくらった洗濯物を取り込んで二日目カレーを食らう。久しぶりに地元をゆっくりと散策した休日となった。さ,洗い物して明日の準備しないと。

sábado, 11 de junio de 2011

平凡な土曜日 / Un sábado nada especial

ブログに記事を書くのはなんと2ヶ月以上ぶり。前回からの出来事を備忘的に記すにはもはやあまりにも長い時間が開いてしまった。4月から始まった約3年半ぶりの非常勤講師生活は思った以上に大変で,平日は朝起きて出講,授業,帰宅,夕飯と翌日の授業準備で一日が終わっていく。移動時間が長い(2時間以上)日が週に3日あり,これもあってか一日があっという間に過ぎて行く。
そんな授業と移動の日常の中で目ぼしいことといえば:

(1)東日本大震災からちょうどひと月が経った4月11日(月)に復帰後最初の授業@東海大学。
(2)4月17日(日)。土方歳三資料館@日野市を訪ねる。ひと月ほど前に読了した司馬遼太郎『燃えよ剣』を携えて,相方さまと。京王線高幡不動駅で下車し,まずは駅からすぐの高幡不動尊金剛寺をお参りして「開運そば」で腹ごしらえ。駅北西の辺りから浅川を越えてそのまま川沿いに多摩モノレール万願寺方向に上って行って資料館へ。歳三の元の生家は石田寺付近にあったそうだが,その後現在の地(万願寺駅からわりとすぐのところ)に移築されたとのこと。実はこの日から愛刀和泉守兼定の刀身限定公開(年に一度,彼の命日にちなみ毎年この時期に展示される)が始まり,その愛刀とともに歳三が使用した鉢金や書簡,句集などを存分に拝んできた。帰りしな石田散薬を入れて担いでいた薬箱にも記されている「山丸印」の入った飴や彼を模った人形焼きを買う。それに,蝦夷地に渡ったのち,軍服に身を包み腰かけて写真に収まる姿のポストカードも一枚。館外には天然理心流の木刀のレプリカも置いてあって,記憶の遥か彼方にいってしまった上段の構えを取ってみるも無残な姿に。最後に彼と土方家の墓所である石田寺を訪れ日野を後にする。

(3)4月の半ばに九州は宮崎に転勤となった大学バレー部の同期の引っ越しを手伝ったり(地デジ対応テレビを譲り受けた。ありがとうね),別の日に彼を囲んでささやかな歓送会を船橋の焼肉屋でひらく。何年も会っていなかった韓国語学科卒の後輩にも会って,今は高校で韓国語教師をしているといった話を聞く。
(4)4月下旬に母校の体育館でバレー部のOB・OGさんと練習会に参加。留学から戻ってようやく高橋先生にもお会いできた。先生はあいかわらずお忙しそうな様子の反面,久保さんのお子さんたちは元気いっぱいだった。翌日からの4月最終週に獨協大学での授業も始まったことで,すべての非常勤先で仕事開始。
(5)5月は連休前後から東京に住む弟くん(松井家次男)と頻繁に会う。月末にあるとあるイベントに向けての仕込みのためである。
(6)その一方で,連休中にもう一人の弟くん(松井家三男)が東京での高校の友人の結婚式に出たついでに亀有の我が家に訪れる。滞在時間わずか一時間程度とかなり慌ただしくて可哀想だったけど,翌日には仕事だったからやむを得ず最終の新幹線で湖西に帰っていった。
(7)5月28日(土)には,そんな弟くんの結婚の儀が静岡にて執り行われた@徳川慶喜公屋敷跡「浮月楼」。お相手は大学4年当時からお付き合いのあった人でなんと静岡は富士宮のご出身。笑顔が素敵で人当たりがよく,披露宴後に少し言葉を交わしたのみだったけどお似合いの新郎新婦であると確信。これからは浜松での新生活が始まるのである。あらためて二人の門出を心より祝福します。勇介・愛ちゃんおめでとう,末永くお幸せにね。またこの日のために仕込んだのが,家族アルバム。勇介個人に対してなのだけど,松井家を「卒業」して旅立っていく彼へのささやかな贈り物である。ところで式に参列してくれた親戚一同の中でも,従妹のお姉さんたちの子どもの大きいこと大きいこと。一番年上の子がすでに19歳なのだと聞いて,成長の速さに驚くとともに自分はどれだけ変わったのかとついネガティブに考えてしまう。翌日曜には東海大学海洋科学博物館(@静岡市清水区)という名の水族館を見学してから,葛飾へと戻る。
(8)6月4日(土)は,大学スペイン語学科の友人がこのたびアメリカ合衆国はポートランドへの栄転(?)が決まったのでその歓送会を@秋葉原。16時半開店~閉店(24時くらい)まで飲み放題という会場をとりつけた「敏腕を通り越して剛腕幹事」(内藤くんの言)のおかげで,もちろん開店時間集合・開始から閉店まで楽しく飲んで食べて大いに笑って過ごす。主役の田邉夫妻の子二人と紀紫ちゃんの子も,彼らなりに楽しめたみたいでなにより。総勢17名(一樹夫妻+2,紀紫ちゃんと優くん,咲ちゃん幹事,多恵ちゃん,礼ちゃん,内藤くん,西川,岳,清史,琢磨,しょこたん,裕美子,わたくし)でにぎやかな一夜。出発は来週の一樹,気をつけていってらっしゃい。

そして今日はこれから大学バレー部の新入部員歓迎会(いわゆる新歓)に津田沼へ。二次会からの参加。我が男子バレー部の現況はマネージャー3名,プレーヤー1名という,まるで現在の日本経済のよう。つまり,ひじょうに厳しい状況だけど,いつかまた部員の増える時代が来ると信じて,つねにオープンマインドで少ないながらもこの辛い時期を乗り越えてほしいと願うばかり。雨は今のところやんでるけど,このまま降らないでくれているといいな。

martes, 12 de abril de 2011

Pasado un mes, el re-comienzo / 再始動

東日本大地震発生よりまるひと月が過ぎた。そんな昨日はまいった,の一言で終わる一日だった。久しぶりの非常勤が東海大学で始まって2コマ続けてしゃべっただけですでに授業中に喉が痛くなる。やれやれ。発声のなってなさを痛感。しかし学生(とくに新入生のクラス)は元気だった。天気のよい春の日によくあってた。17時頃大学を後にして小田急線から千代田線に乗りついでしばらくしたところで,かなり大きめの余震があったことに車内アナウンスでやっと気づく。それで電車の雰囲気が何か違ったものに感じられていたのかが腑に落ちた。少し進んではしばらく停車を繰り返し,3時間ほどかかって亀有駅着。電車を降りるとたいそう雨が降っているではないか。むろん傘はない。かくして天気予報は当たっていたのだった。いや,降り始める前に帰宅するつもりで家を出たのだけど,まあそれに間に合わなかっただけのこと。ぎりぎりまだ開いていた駅近くのダイソーでビニール傘を買って雨の中を徒歩にて帰る。中川橋上では強風が横に吹きつけてきてたおかげでスーツのズボンはびしょ濡れだ。でもパンツの中まで~にはならない程度で済んだからよしとするべきだろう。とにかく長い一日だった。

今日は授業はなかったのだけど獨協大学に行く。LLの授業を担当することになったので,授業開始日が延びたことだし,事前に操作を教わるために。阿部さんはサポートをどうぞよろしくお願いします。そして萩原さんにはいろいろな申請手続きまで付き添っていただいてたいへんお世話になりました。朝には講師室で偶然同僚になるPiliに会って,僕の用事が終わったらお茶をする約束をしたので研究室に伺うと,お昼まだだったら美味しいインド料理屋さんがあるからということで,じゃあそこに行こうとなった。食べてる最中に揺れがきてPiliが思わず外に出たので後を追い,揺れが収まるのを待った。そんなことがあったけど,ラッシーなる飲物も試したりして美味しくいただきました。Piliご馳走さまです。ひとしきりおしゃべりもしてキャンパスに戻ると彼女はもう少し授業準備をするということで校舎の中に消えていった。しかし獨協大学は,キャンパスだけでなくそこで働く人たちや行き交う学生たちまでもがなかなかいい雰囲気を漂わせていた。Piliには「ここは好きになれそうだ」と率直に伝えたら彼女も似たような感じを抱いてると応えてくれた。キャンパスは新入生の何かしらの行事があったのか,かかる学生とその学生たちを目的にした新入生勧誘に精を出す在学生たちでにぎわっていた。

さて僕は帰宅。18時から歯医者の予約。ブリッジが入る日だ。マドリーでのあの日から約7か月。ようやく隙間が埋まった。と同時に歯並びの悪さがもしかしたら先天的なものなのでは,将来子どもにも伝わるのではとおどかされる。その時まで自分の歯並びの悪さは,相対的な顎の小ささと4本とも完全埋伏歯の親知らずのせいだろうと勝手に思っていたのだけど,どちらの可能性も否定されて終わる。まあそうしたら子どもは矯正だね。僕はしたことないけど。それよりまずまだ子どもいないけど。あと,僕は無意識のうちに歯を強く噛みしめ過ぎる癖があることもあわせて教えてもらった。おそらくそのせいで歯を支えている骨が発達して隆起してしまっているとのご指摘。これは,たとえば将来入れ歯をする際に問題になるという。これに対する僕の説明は次のようなものだけど,これも否定されるのかは定かではない。そこまでは話に出さなかったから:
小学生のころに年に一度,夏になると山梨と松本に住む同い年の従兄弟と3人で大阪にある色覚異常を改善する治療を施すというクリニックに,その山梨の従兄弟の母親に付き添ってもらいながら通っていた。大阪に住む親戚の家にみなで寝泊まりさせてもらって,でも今となっては一週間だか一か月だか,どれくらいの期間通っていたのかよく覚えていない。そこでの治療方法は,まず一人一人図書館にある備え付けの勉強机のような台の前に腰かけて,イヤフォンのヘッドが直径5センチ程度の円形状になったモノにスポンジをはめ込み,それを通電液で濡らしてこめかみ辺りに押し当てて目を閉じスイッチをオンにすると,一定間隔で断続的に電気が流れてそうすると暗くなった眼前に光の輪がくるくる回って現れるのでそれをしっかりと見続けましょう,というものだった。とにかく,これも一回当たりどのくらいの時間受けていたのかはもはや覚えていないのだけど,この電通治療が痛くて痛くてよく泣きべそかきながら受けたものだった(たまに異形の器具を使う回があって,それはこめかみではなく細長いスポンジを鼻の中に突っ込んでそこへ通電するというモノ。さらに痛くて見た目以上に悲惨。終了後スポンジを抜くと鼻水がだらーとなることは想像に難くないであろう)。もちろん決していいものではなかった。「和同会の山田です。・・・」と淡々と語る院長であろう人物の録音テープが繰り返し繰り返し流されていたことがあわせて思い出される。それでもよかった思い出として残ってるのは,待ち合い室にあった手塚治の漫画が読める瞬間(とくに『三つ目がとおる』を読んでた覚えがある),従兄弟同士でクリニックの行き帰りの道すがら「ゲームウォッチ」(「ゲームボーイ」の先駆けのようなもので,今ググったら「ゲーム&ウォッチ」という任天堂の商品があったことを知る,というかそんなものもあったかとうっすら思い出す!)で遊んだこと(ゲゲゲの鬼太郎のゲームだった)や夜な夜な怖い話をし合ったことなど。これは本当に楽しかったな。と,回顧が長くなった。仮説的説明に戻ろう。そんなにも痛い治療だったので,かなり歯を食いしばって耐えていたに違いない。これを毎年わずかな期間でも繰り返すうちに,噛みしめの癖がついてしまったのではないかと思うのだが,どうだろうか。

さ,だいぶ記憶を遡ったところで,明日は母校での初日だ。

sábado, 2 de abril de 2011

Esa muela / 新年度の始まりに

歯医者へ行った。
すべては半年以上も前に,マドリーで(たった今からMadridは「マドリー」と表記することにした。以前までは「マドリッド」を好んで使っていたのだけど)夏季休業が明け再開した寮に戻ってきた初日の夜,食堂で夕食をとっていたらとれた,今は無きその歯があった箇所を診てもらうために。場所はアパートから最も近いところにある歯科医院。徒歩1~2分の近さ。実は今週の月曜に初診に訪れていて,そのときまではインプラントの可能性を考えていたのだけど,僕の上顎洞(じょうがくどう: ここで起こる「蓄膿症」のことを「上顎洞炎」と呼ぶそうな)の位置の問題からインプラントよりもブリッジによる施術の方が妥当だと告げられる。今日はそのための検診といったところ。30分もかからず終わって,いよいよ次回から施術が始まる。具体的には,欠損した歯の両側の歯を全体的に削ることはせずに,それぞれの歯の中心から十字に削ってそこに義歯をはめ込むことに。この方が比較的侵襲も少なく,施術時間も短くてすむ,値段も若干安め,そして審美的にも上ということで,これだけ聞いたら「じゃあそれでいいじゃない」と。唯一ともいえる欠点は,前者よりも安定感に欠けることだそうな。そりゃあ土台の面積が相対的に少ないのだからね。とにかく,来週には健全な歯が削られるのだ。今は無き歯のために。隣人よ,少々耐えておくれよ。そうすれば歯全体の長期的バランスがよくなるのだから。

さて。帰宅後はキャベツと玉ねぎとさやえんどうを加えたインスタントラーメンを作ってお昼。食べ終えるや落ち着く間もなくKUISのキック・オフミーティングに出かける。1時間半以上前に京成幕張着。まずはJRの駅前通りにある千葉信金で口座解約のご相談。幕張銀座通りを抜けて大学を目指す。ところでこの通り沿いには古くからありそうな豆腐屋,米屋,酒屋,理髪店,赤提灯の店,などが立ち並び,なかなかこれはこれで風情があるんじゃないかしらと感心した。14号を渡って埋め立て地帯に入ると,ところどころに東日本大地震の爪痕が認められる。大学に着いたら会議室には直行せず,まずは図書館を目指す。したところ4年前くらいに担当した授業にいた学生・西川遼くんと偶然ばったり出会う。というより,向こうから声をかけてくれたおかげで気づいたのだった。やりたいことを果たすためにあえて留年して大学に残ったとのこと。最後の追い込みがんばるんだよ,応援してるからね。その次に広報の前を通り過ぎようとしたときに,バレー部つながりのミツオくんに気づいてもらいご挨拶。またバレー部の練習に顔出しますからね。さて,図書館。お目当ては同大学図書館で毎年編集されている『本はおもしろい』という新書サイズの本のバックナンバー。これは師匠である江藤先生からの事前のメールによるご指示あってのこと。2007-2010年版を無事にちょうだいし,いよいよミーティングへ。主に師匠以外の先生方とは久方ぶりのご対面となる。今年度から再びよろしくお願いいたします。その後の懇親会ではポルトガル語専攻の高木先生を見つけてご挨拶。スポーツセンターの村野先生を見かけるも挨拶し損ねる。バレー部の先輩でもある久保さんとも会開始の挨拶中に見つけていただいたきり,ろくに話もできなかった。結局,スペイン語の非常勤集団が最後まで残ってミレニアムハウスを後にする頃にはすっかり日も暮れかけていた。バレー部後輩の美佳が去年の夏くらいにキャリア教育センターへ異動になったと聞いていたのでのぞいてみるもすでに退社後。久保さんが兼務される学長室控え(?)をのぞくも右に同じ結果に。このお二方には後日あらためて挨拶に伺うということで。

久しぶりに一気にたくさんの人と会った。少々疲れたのか,夕飯は西友でお弁当を買ってつけあわせに大根と本日ダブルヘッダーとなるさやえんどう+細ネギのみそ汁を作っていただく。初回授業まであと10日。

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PD. お恥ずかしいことに「奥歯」の綴りを間違えたので訂正しました。言い訳ではないのだけど,発音を考えたり実際に発音するときは"l"エルでしている,少なくとも自分はそれを意識しているのに,なぜか書く段になると"r"になっていた。結局,まだそれだけこの二つの音素に対する弁別の意識が弱いのだろう。それと「奥歯」っていう語彙の綴りもはっきりとしたイメージとして記憶されていないのかもしれない。つまりは曖昧なままにしているのだ。ともあれ,ご指摘いただけた師に深謝です。

viernes, 1 de abril de 2011

De vuelta al mundo docente / 再びこの世界へ

日付もかわって新年度が始まる。
3年半以上の間中断していた生活が,またやってくる。スペイン語の非常勤講師としての生活。でも「同じ生活」に戻るとは思わない。スペインに留学していろいろと変わったこともあるでしょう。思想も変わったのかもしれない。でも留学してなくても以前とは「同じ」ではあり続けないのだけど,という脳科学的話を出すまでもなく,とにかく,10日後には久しぶりの授業第1回目が新天地で始まるのだ。しかし博論はまだ終わってない。より一層気を引き締めねば。試練の年である。
明日(つまり今日金曜)は,それに先駆けて母校・神田外語大学で毎年恒例のキック・オフミーティング。今まさにこの文字を打ち込んだ瞬間に,そういえばこのミーティングのことを告げるような記事を当時はmixiに書いたななんてことを思い出した。そいういうわけで,お世話になった先生方とともに再び「勉強」することができるのだ。こうした取り計らいをしていただける諸先生方,とりわけ師匠にただただ感謝する次第である。
こうした非常勤の授業の関係もあって,今日は外大図書館に本を返すのと生協で予約してあった本を購入しに行ったついでに,柳原孝敦『映画に学ぶスペイン語―台詞のある風景』(東洋書店,2010)も買う。帰宅後,主に自分が観たことのある映画の解説を読んでみて,その面白さというか指摘するポイント・話の展開の仕方は大いに勉強になる。そして柳原先生の語り口調も一緒に思い出されるのであった。読んでいて楽しい。
ところで帰宅途中,新宿で丸ノ内線に乗り換えようとしたところ神田外語学院から電話をいただいて,内内に金曜一コマの担当することが決まった。非常勤先は神奈川県・埼玉県・千葉県といけずなくらい東京外しだったのだが,これで東京都区内に居を構えたことが晴れて報われた形になる。またこの学校にはやはりご縁のようなものがあるらしいことを思い知る。

帰りしな駅前の家電量販店でトースターをゲト(イチキュッパ,だ)。これで食パンとハチミツさえあればあとは美味しいトースト・ライフが約束されているのだ。

lunes, 28 de marzo de 2011

Día de compras / 停電の中の映画に魅かれて

雨の一週間から解放された週末。
昨日は月例研究会で終了後はいつもどおり打ち上げに。駅前のいつものお店はありがたくも営業中だった。電車を乗り継いで日付も変わり無事に0時半ごろ帰宅。冷え込みはまだ厳しいうえに強風。歯磨いて顔洗ってちょっと本読んで就寝。

そして本日も快晴。遅めに起きてシャワーを浴びてる間に洗濯機クンに働いてもらう。軽い朝食を取ったあと洗濯物干したりしてたら昼飯時に。焼きそばの麺が賞味期限切れだったので迷わず昼食に決定。キャベツ・玉ねぎ・人参・豚肉がお供する。少し早めにだけどもう乾いてたから洗濯物を取り込む(これが冬のいいところ。マドリッドにいたら冬といわず一年中洗濯物の乾きは速くて便利なんだけど)。
天気もいいから勉強道具をもって亀有駅方面に出かける。久しぶりに自転車に乗って行くも,中川橋を渡ったところにある某ショッピングモールに置かせてもらい(帰り際にユニクロでパンツ2枚買ったから許して),モールの中を抜けてあとはぶらぶら徒歩で駅まで。しかし週末のこのモールの混みようはいかがなものか。2階・3階の売り場も営業を再開したらしく,それでも節電のためか通路の照明が半分くらいは消された中で人の姿が1階から見えた。
駅周辺でどこかコーヒーの飲める落ち着いたお店がないか探しているうちに北口のツタヤが見えてくる。ここにあることは知ってたけど今日初入店。入るなりDVD3本で3千円のワゴンセールにつかまり,次の3本をチョイス。これが今日の収穫:

- 『薔薇の名前』(ジャン=ジャック・アノー監督,1986年)
原作は哲学者であり小説家でもあるウンベルト・エーコの同名の有名作品。僕は未読。14世紀の北イタリアにあるカトリック修道院を主な舞台にしたミステリー・サスペンス映画。ショーン・コネリー主演。

- 『デスペラード』(ロバート・ロドリゲス監督,1995年)
あのManuが"loco"と称するちょっと面白く馬鹿げたアクション映画を作るのが得意なR.ロドリゲス監督・製作・脚本作品(ちなみに,locoはほかにもいて,たとえばAlex de la Iglesiaもその一人で「これは絶対おすすめ」というManuの意気込みに負けてついに観たのがDía de la bestia (同監督,1995年)。マドリッドが舞台のこの映画には,グラン・ビアの広告塔であるシュウェップスSchweppesのネオンをもつビル(カリオンビルEdificio Carriónというらしい)やまだ工事途中で未完のキオ・タワーTorres KIOをみることができる)。僕は,スペインにいる間にMacheteを観たかったのだけど果たせず帰国。この『マチェーテ』は,実は映画Planet Terror(同監督,2007年)の冒頭に「実在しない」映画の予告編として披露される。ロドリゲス監督はQ.タランティーノと仲良しらしく,彼の狂気じみたホラー・アクションから繰り出されるジョークに近いものがあると言えば,当たらずといえども遠からずか。ギャングに恋人を殺され,復讐の旅に出た伝説のガンマン・マリアッチの物語。

- 『スパニッシュ・アパートメント』(セドリック・クラピッシュ監督,2002年)
舞台はバルセロナ。主人公はパリ出身の大学生グザヴェイ。そう,彼はエラスムス計画(ヨーロッパ諸国間の交換留学プログラム)でスペインにやってくるの。そこのアパート(つまりpisoだから隣人としてではなく一つ屋根の下)で暮らすことになる国籍がみなバラバラの男女6人の共同生活を描いた話。登場人物の出身国は,フランス,イタリア,ドイツ,英国,スペイン,デンマーク,ベルギーだそうな。『アメリ』以前のオドレイ・トトゥも出演。
Cfr. http://movies.foxjapan.com/spanish/

日本ではDVDを買うことはほとんどなかったのだけど,研究会のメンバーで4月から在外研究に行くためしばしのお別れとなる先生が,先日の計画停電にあたった日にパソコンで映画を見てやり過ごしたっていう話を聞いて,それに感化されたのかもしれない。しかし蝋燭も買わないで映画を買うとはいかがなものか。
結局,本を読むための適当な店が見つからず,というかあまり気分が乗らなかったのかもしれないが,そのまま駅周辺を散歩する形になって帰宅。カレーの日である土曜の夜は外食だったので,繰り下げということで今晩の夕食もすでに決まっていたのだった。

jueves, 24 de marzo de 2011

寝読・移動読書がはかどる(?),今日この頃

ここのところ寝つきが悪くて,これは僕にとってはすごく珍しいことなのだけど(のび太くんの記録には遠く及ばないが,横になるとわりとすぐに眠りにつく),ともかくそういうこともあってか寝読がすすむ。数日前には午前1時を回ったところで布団に入りいざ寝ようと目をつぶってもいっこう眠れる気がしない。諦めて『燃えよ剣』を読み始めたら・・・朝の8時くらいになってしまった,という話。あまり(というかまったく)誉められたことではない。
その甲斐あって,おとついには読了。今までの「新選組」知識というかそれに対するイメージは,川原正敏『修羅の刻』(講談社コミックス)に負うところが大きかったのだけど,司馬遼太郎の「新選組」観が加わって,これまでも東京の土地の中では比較的馴染のあった甲州街道や今回引っ越してきて馴染になりつつある水戸街道の名が出てくるたびに,その世界への没入を助長してくれた。いつか必ず日野にある土方歳三資料館を訪れることを一人心に誓う。

さらには東日本大地震発生の数日前に『下流志向』も読了。現在の移動中用の本は牛島信明編訳『セルバンテス短篇集』(岩波文庫)。スペインで観た戯曲化された作品「ガラスの学士」を含み,今のところ「やきもちやきのエストレマドゥーラ人」と「愚かな物好きの話」を読み終えて思うことは,原文が軽快な文章で綴られていることはさることながら,日本語でもとても面白く読み進められるところに,訳者である故牛島先生の偉大さを今さらながらに再確認するのである。ところで,言葉に関して面白いなと思ったのは,「愚かな物好きの話」に登場する美しく貞淑な妻カミーラとその侍女レオネーラが,夫であり主人であるアンセルモの無二の親友ロターリオの人となりについて話し合っている折に,レオネーラが彼を次のように形容する件:
(...)だいいちロターリオ様は、立派な恋人ならそなえていなければならないと世間で言いならわされている四つのS(sabio 賢明な、solo ひとりで事を行う、solícito 熱意のある、secreto秘密を守る)ばかりか、ABC以下のすべての長所をすっかり揃えておいでなんですよ。まさか、とお思いなら、まあお聞き下さいな、わたくしそら、、で言えるんですから。あの方はね、わたくしがこの目で拝見し、判断するところでは、恩を忘れない(agradecido)、善良な(bueno)、礼儀正しい(caballero)、気前のよい(dadivoso)、ひたむきに恋する(enamorado)、意志の強固な(firme)、りりしい(gallardo)、高潔な(honrado)、卓越した(ilustre)、誠実な(leal)、若々しい(mozo)、気高い(noble)、正直な(onesto)、家柄のよい(principal)、資産家の(quantioso)、豊かな(rico)、Sはさっき言いましたわね、それから、口数の少ない(tácito)、信頼のおける(verdadero)、方なんです。Xは耳ざわりなきつい音ですから、あの方にはふさわしくなく、Yはもう言いました(音からしてYはIと同じということ)。それから最後のZは、奥様の名誉を熱心に監視する(zelador)方のZですわ。」[前掲書,p.137]
Xが「耳ざわり」で「きつい」音というあたりに日本語話者との音感の違いがありそう。ちなみに(少なくとも)スペイン語に特有の文字Ñから始まる語はないので,もちろんこの侍女の口からも出てこないのはしごく当然のことだが,JとUについては,確信はないがおそらく,前者はIの,後者はVの異形であっただろうという経緯から,言及されていないのだろうと考える。Wは「二重のV(だからUでもある)」なので,やはりVで代表されているのだろう。

寝読用にはスペイン留学の後半で途中まで読んでいて帰国を境に読みかけのままになっていたRoberto Bolaño, Los detectives salvajes (Anagrama)にすることに。といいながら,昨夜はおもむろにJ.L.ボルヘス『伝奇集』(鼓直訳,岩波文庫)を手にとってその「解説」を読んでしまった。
勉強用の『自然科学としての言語学』は,ノートにまとめながら読んでいることもあってやっと半分を過ぎたところ。これこそもっとスピードアップせねば。しかし,そのうち気になった箇所について書き連ねたいところでもある。

sábado, 19 de marzo de 2011

Sin más / ふと思い浮かんだ画

Capricho 43, El sueño de la razón produce monstruos
"El sueño de la razón produce monstruos" -- una obra de Francisco de Goya, Capricho nº 43, tomada de Wikimedia Commons.
...
Reinterpreto «El sueño de la razón» como «el despertar del pánico». Éste no tiene ningún aspecto bueno ni positivo.

jueves, 17 de marzo de 2011

Pasados 4 días desde el 11-m

Cito abajo casi todo lo que acabo de escribirles por correo-e a los compañeros del Laboratorio de Lingüística Informática de la UAM (con un poco de modificación del texto):
(...) la verdad es que lo peor de todo es por el nordeste del país como en Miyagi y Fukushima, que sufren más estragos por el terremoto y el tsunami (se considera que este causó daños al sistema de refrigeración de las centrales nucleares, por lo que se han producido una serie de accidentes nucleares informados hasta el presente. Pero según unos especialistas, se analiza que Fukushima no va a repetir la catástrofe de Chernóbil). A partir de esta noche en adelante, va hacer mucho más frío tanto en Tokio como en dichas regiones, en las que está nevando en este momento. Seguro que los refugiados están pasando momentos muy duros sin suficientes subsistencias, tales como agua, alimentos, calefacción, electricidad, medicamento, higiene, gasolina, etc. Su necesidad se detecta más en los sitios, instituciones, pueblos aislados a causa del corte de la comunicación como carreteras, telecomunicaciones.

En cambio, en Tokio en general, la vida va con alguna normalidad (claro está, aquí también siguen ocurriendo las réplicas a intervalos, pero no tan fuertes como el día 11, y algunas zonas suyas están afectadas por los apagones rotativos decretados por el Gobierno y, por consecuencia, por la reducción del servicio de transporte, tren y metro), sin embargo, está pasando un desastre secundario parcial debido a la demasiada preocupación por el asunto. Aunque se habla del civismo de la sociedad japonesa (p. ej., cfr. El País, 15/03/2011), quedaria cierta duda sobre una conclusión como la de que "en Japón no hay saqueos". La cosa es que en realidad hay algunos que hacen provisiones [acaparamiento] de subsistencias, pero excesivamente. Lo hacen "civilizadamente [cívicamente: KM. La idea tomada del prof. Yanagihara]" y, por tanto, no pocas veces no llegan a quienes las necesitan de verdad como la familia que tiene bebé, los ancianos que tienen cierta dificultad para el movimiento, etc. No tengo ninguna intención de criticar a estos ciudadanos que cometen "saqueos silenciosos", sino que entiendo muy bien que estamos bastante preocupados, inquietos por estas circunstancias críticas. Lo importante será, más bien, la mentalidad de "compartir entre todos lo que hay". En algún sentido, todos estamos sufriendos y bajo esta situación difícil --"la crisis o el catástrofe nacional", podríamos llamarla-- habrá que pensar en cómo reducir daños, aliviar el dolor para superar esta crisis nacional, nunca en satisfacer a todos (será imposible).

En cuanto al terremoto de anoche en Shizuoka, como la ciudad donde vive mi familia está relativamente lejos del cetnro sísmico, todos están bien, incluso mi hermano más pequeño, que en ese momento estaba con su novia (por cierto, se van a casar en mayo) por la ciudad de Fujinomiya, en la que se registró más de seis de intensidad en la escala japonesa.

Esperando que todo vaya volviendo a la normalidad poco a poco...

martes, 15 de marzo de 2011

La peor tragedia desde Hiroshima / 彼は我

スペイン語のタイトルはEl País紙14日付の記事の同タイトルから。

東北地方太平洋沖地震の発生から3日が過ぎた。備忘に初日のことを少々: 11日は昼前から浅草で寄席を聴いていたところ地震に遭遇。初めの揺れが収まって一度は劇場に戻ったものの,次の大きな揺れがきたときに外へ避難してそれきり劇場を後にした。喫茶店,バーミヤンと場所をかえながら情報収集とその後の行動に備えて腹ごしらえをして,公共交通機関がほぼマヒという状態が続いていたことから夜9時前に徒歩で帰宅することを決意。少し道を間違えながらもほぼ水戸街道(国道6号)沿いに歩いて2時間半くらいでアパートにたどり着く。途中でコンビニに寄ってホッカイロを買うついでにトイレにも行く。このとき,ファミレスに携帯電話を忘れてきたことに気づく(翌日の昼過ぎに無事取り戻す)。荒川を渡る橋を越えるときが寒さの最高潮だった。ともかく無事に帰宅した。しかし6号を離れるまでともに歩いて来ていた人の多くは,まだまだ先を目指しているようだった。その先の長さからか,途中で休憩している人の姿も。

その後,Facebookやメールなどでスペインの知人を含めた友人から安否確認のメッセージをもらう。気にかけてもらえてありがたいことだ。大学のスペイン語の友人たちの無事も今日まででほぼ確認できた。会社に泊まった者や3時間半かけて徒歩で帰宅した者もいた。福島(須賀川市)に引っ越したSちゃんは水が止まり,今日になって一時的にでもようやく出るようになったと聞く。さらに愕然とさせられたのが,わずか隣の県に住む者は,液状化現象を目の当たりにしているということ。電車で少し行った先には,土地が埋め立てでできているばかりに,非日常的な惨状が広がってるだなんて。

そしてその惨状は中心的被災地においてはなおのこと。東京の一地区に住む僕には,ほぼ日常とかわらない生活が戻りつつある。今日は久しぶりに日雇いバイトに出かけたが,行きも帰りも運のいいことに電車はさほどの遅れもなく乗ることができた。しかし,休憩中に見たテレビに映し出される非常事態がまぎれもない現在の日本が直面している国家的危機なのである。すでに二千人近くの人の死亡が確認されているという。行方不明者は数知れない。なんだかやりきれない気持ちでいっぱいになる。むしろいつもどおりの生活風景が違和感をもって立ち現れる。そうして帰宅してとあるリツイートから東京都知事の大震災に対するコメントを読んで,その見当違いな発言に憤りを感じる(アサヒ・コムの記事にもなっているとのこと)。そこには発言者本人の存在がカウントされていないようにすら感じられ,あたかも自分は「(我欲というアイデンティティーをもつという)日本人」ではないような物言いである。そしてこの天災を「天罰」と称したらしいのだが,この瞬間にも様々な方面で被災地の救援救助を行っている人々,復旧活動にあたっている人々を前にしてどうしたらそんなことが言えようか。

バイト先でのある人いわく,スーパーで品薄・売り切れ状態が続く中,お年寄りがわれ先にと商品を手にする姿を見たと。それを,さもしい老人だ,と非難するのであれば簡単なこと。問題はなぜそのように振る舞うのか・振る舞わざるをえないのか,だろう。震災による影響が直接の原因ではない。おそらく,周囲の空気が変な切迫感に包まれている,それがお互いに伝播してしまい焦燥感を駆り立てられ節度ある行動を妨げているのだと思う。元来,お年寄りは弱いものである(体力的には当然)。モノが少なくなって奪い合うまではいかなくとも足早に近づいてみなが必要とするモノが一気に買い上げられていくような状況を見せつけられれば,次に目にするのはそうした状況の目撃者による再生産の姿である。こういう事態だからこそ,「痛み分け」の精神が大切なのではと考えるのである。

この記事の日本語タイトルは,厄災を間接的に経験する被災地から離れた人心に焦燥感を植えつけたいわけではもちろんなく,寛容をもって弱きものの立場に寄り添いたいという想いからであり,たとえば村上春樹のエルサレム賞のスピーチ文を思い出すようなものである。

jueves, 10 de marzo de 2011

Instalado en Katsushika-ku / 引っ越しました。


Kameari / 亀有 (1)
Cargado originalmente por matsuken_flk

これももはや2週間以上前の話。
2月19日土曜。忘れ物をしたことで1時間遅れで実家を出発した引っ越し当日。車で両親とともに葛飾区を目指す。アパート付近でバンをレンタカーして金町駅にある仲介の不動産屋で鍵を受け取ると,浦安にある倉庫会社に3年半も預けっ放しにしていた荷物を引き取りに行き,積み込み,再びアパートで荷降ろしをして,とにかく移動移動の一日だった。駅周辺で度々道を間違えてたいへんだったけど,慣れない大きさの車にもとくに事故なく往復できてほっと一息。しかし国道6号の混みようにはうんざり。バレー部同期の功一くんにはそんな荷物の積み降ろしでたいへん助けられた。近くのしゃぶしゃぶ料理屋で労をねぎらって解散。
日曜は両親とともにお昼過ぎまで日用品の買い出しをして(カーテンや蛍光灯をそろえる),夕方から調布に住む弟くんのところへ向かう。環七を進むも途中で渋滞もあり2時間近くかかって到着。仙川駅にある焼肉屋で食事することになって,お店に入ると30分ほど待つとのことだったのでその間に弟と二人でコタツ布団を探しに出る。もう時機終わりということで亀有の某大型スーパーマーケット(旧IY)では手に入らなかったため。仙川はおしゃれな雑貨屋さんがいくつかあるのだけど,さすがにコタツ布団の取り扱いはしてないか時期的な問題でやはり見つからず,あきらめかけて最後に入った無印良品で色違いの2点が現品限りで残っていた。なんと7割引きで即購入(現在大活躍中)。焼肉も値段の割に質量ともあっぱれなお店で,たいへん美味しくいただきました。最後に銭湯に浸かって弟くんとお別れ。
明けて月曜。この日は実家から送った段ボールの荷物が朝に届けられることになっていたので,それを受け取ったらいよいよ部屋の中が段ボールの山に占領される。少し荷解きをして,買い物,昼食となんだかんだ両親に手伝ってもらい,金町駅そばにある区民事務所で転入届を出し終えたところで両親とお別れ。3日間もつきあっていただきたいへん助けられた。ありがとうございます。その後,なんとか17時前に亀有警察署で免許証記載事項変更届を済ませる。
火曜水曜と午前は日雇いバイトの登録会なぞに足を運ぶ。水曜午後は4月からの某非常勤先のO先生と同じ勤務先の同僚となるMさんとともに品川で2時間弱ほどお話し合いや打ち合わせ。そして夕方には内田樹x池田清彦トークショーを聞きに神保町へ。尊敬する内田先生の声は,想像よりも高音,というか澄んでさわやかに耳に響くものだった。持参した本(『街場のアメリカ論』。会場で購入しないですみません)にサインしてもらい,ミーハー心全開で相方さんとともに楽しかったねといいながらなか卯で食べて帰途につく。
木曜は一日久しぶりの労働@川口。
金曜は夜にKIFLのもと教え子7名と飲み会兼Jのアジア行送別会@上野。一次会終了後に残った4人で店をかえて朝まで過ごす。
土曜は研究会。と同時にわが新居では某3名によるプチ卒業旅行をかねた鍋パーティーが開かれていた(もとより家主は会場提供が主な仕事だからいてもいなくてもよいのである)。帰宅後に合流。今をときめく乙女たちとの束の間のおしゃべりに加えていただく。
翌日,亀有アリオでお昼を食べたりプリクラ撮影。
2月最後の日は夕方から肉体労働(というほどの力仕事でもないが)@豊洲辺り。まだまだ夜の冷え込みは厳しく,開けっ放しの倉庫はほぼ外気温そのまま。
3月3日ひな祭りにも夕方に同じバイトに出かける。一人従業員の方で昔どこかで会ったことがあるような気がしてしかたがなかったのだけど,ついに声をかけることなく仕事場を後に。日付が変わって帰宅後,アパートそばのスーパーで一つだけ残っていたちらし寿司をゲトしビールとともにいただく。
5日は上智大でスペイン語教育に関するシンポジウムに参加。その後打ち上げに繰り出すメンバーの方々を後ろ髪引かれる想いで見送り,亀有に戻って功一くんと飲む。辞令が出て九州に転勤になったとかで,せっかくご近所さんになったのも束の間,もうお別れ会気分である。
7日月曜は再び東京に雪が舞う,どころではなく軽く積もる程度にまで。Yさんと外大で会う約束も木曜に延期してもらい自宅待機の一日。午後には雨にかわる。
8日火曜は相方さんと近所の香取神社を訪れる。亀有が当初は「かめなし」(亀無,亀梨)と呼ばれていたという事実を知り二人で驚く。辺り一帯が亀甲の形を成していたことから(亀の形を成すで)「かめなし」だとか。鳥居の足元の両脇に置かれた狛犬ならぬ狛亀の表情がなかなか愛嬌があるので,思わず写真を撮る。ここにも「こち亀」の両さんがいるのだが,その写真はいずれ。

というわけで,とうとう亀有に引っ越してきたのである(住所は新宿と書いて「にいじゅく」だけど)。

ちなみに,引っ越し前に読み始めた『ソクラテスの弁明』は先月読了。新たに内田樹『下流志向』(講談社文庫)を移動中用に,司馬遼太郎『燃えよ剣』(新潮文庫)を寝酒ならぬ「寝読」用に,勉強として福井直樹『自然科学としての言語学―生成文法とは何か』(大修館書店)を読み始める。

sábado, 19 de febrero de 2011

Shirasuka --> Katsushika-ku


Día X = 引越
Cargado originalmente por matsuken_flk

Mudanza, que va a tener lugar dentro de 5 horas...

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先週末に久しぶりに家族(母・祖母)で映画を観に行って銭湯に入ってから早一週間。『白夜行』(深川栄洋監督,堀北真希・高良健吾主演)をふりかえる暇もなく今に至る。ところで,往生際の悪いことに今日も古本屋にいらない本を売りに行ったら,探していた本が運よく見つかったので購入: 内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文春新書,2002)。事前に送った荷物の半分は書籍だっていうのに。やれやれ。

sábado, 5 de febrero de 2011

Misión cumplida / 物件探しの任終了


Jardín Nacional Shinjuku Gyoen / 新宿御苑 (2)
Cargado originalmente por matsuken_flk

Tras la búsqueda de piso por Tokio, ya estoy de vuelta a casa de Shizuoka. Al final no viviré en el prefectura Kanagawa sino en uno de los 23 barrios especiales de la capital llamado Katsushika-ku. Éste es bien conocido gracias a una serie televisiva y una saga cinematográfica que la sigue, Otoko wa tsurai yo, todas las que protagonizó Kiyoshi Atsumi o reconocido popularmente como Tora-san (Torajirou Kuruma) según el papel interpretado en las obras. Aunque estuve muy poco tiempo ahí, me pareció bastante cómodo y creo que me va a gustar.

Durante esta estancia, me pude pasar por dos sitios. Uno es un comedor de carne a la parrilla que está en la ciudad Machida, el que visité con mi hermano más pequeño cuando vivíamos juntos hace unos 6 años. Es una localidad no muy grande, más bien muy pequeña para ir más de cinco personas, pero tiene ambiente muy casero y al asar carne se puede gozar de su propio estilo. Otro es el Jardín Nacional Shinjuku Gyoen, al que quería ir desde hace años. Ahí ya se puede disfrutar del cerezo Kanzakura bien florecido como se ve en la foto de arriba.



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そして次に読み始めた本は,プラトン著『ソクラテスの弁明・クリトン』(久保勉訳,改版,岩波文庫)。

martes, 1 de febrero de 2011

いいペースで読了?

昨年末に読み始めた内田樹『街場のアメリカ論』(文春文庫,2010)を終える。あとがきや解説を含めて300ページ弱の分量だけど,少しは本読みのペースが上がったことを期待。この本は,そもそも2005年にNTT出版からでた単行本の文庫化であるのだが,著者自身,執筆当時から5年以上たった今でもこの本のリーダブルさを認めている。注目すべきはその理由に挙げていることなのが,それは,汎用的なるアメリカ論『アメリカにおけるデモクラシーについて』をすでに約180年前にその一隻眼をもってして著したアレクシス・ド・トクヴィルに本書が捧げられている,ということである。そこでは,そんな昔の人「トクヴィルが墓場から甦って読んでも『わかる』」(内田,前掲書,「文庫版のためのあとがき」より,p.265)ことを目指したそうな。
そんなトクヴィルの偉大さを,内田センセは次のように述べている:
 どうして、これほど時代を越えた汎用性を獲得しえたかというと、それは彼がその「アメリカ論」を「アメリカのことをほとんど何も知らない読者」」を想定して書いたからである。(中略)
 だから、トクヴィルは噛んで含めるように書いている。そして、まさにその「噛んで含める」という点においてトクヴィルの批評性は際だつのである。「どなたもご存じないと思うので、一言でご説明すると・・・・・・」というのは「周知のように」というアプローチとはまったく逆のものである。「どなたもご存じないこと」を「一言で説明する」という仕事において、知性の質の差ははっきり現れる。
[同書,「あとがき」より,pp.262-263]
どこも同じような話題を同じような論調で表面的なことしか扱おうとしない(扱えない)昨今の日本のメディアに,以下の指摘を十分に噛みしめていただきたいと切に願う次第である:
トクヴィルは百七十年後の読者にとっても示唆的な知見を述べているが、それは彼がアメリカン・デモクラシーの「本質とは何か?」という問いのみに思念を限定し、派生的な現実に興味をとどめなかったからである。
[同書,「あとがき」より,pp.264]
つまり,「アメリカン・デモクラシー」の部分を取り上げようとするその「問題」に置き換えて行動してください,というお願いである。
最後に,本書の「文庫版のためのあとがき」にはそうした態度による著者なりの実践の片鱗が,「普天間基地の移転問題」という論件について,垣間見れることを記しておく(でも大筋はブログでも読んだ気が)。

domingo, 30 de enero de 2011

¿Dónde vivir?

Acabada una charla en kenkyuu-kai ayer, ahora me toca buscar donde vivir de la región de la capital tanto para trabajar como para estudiar a partir de abril. Con lo separados que están los sitios donde voy a trabajar, no sé decidir ni siquiera aproximadamente dónde (claro está, esto depende también de la límite superior del alquiler). En teoría, debería ser el punto medio de los lugares de trabajo y de mi universidad (que aparecen indicados con chinchetas en la foto), pues, empezaré la búsqueda primero por esa zona, que va a ser la ciudad de Kawasaki, de la prefectura de Kanagawa (puede que ya no vaya a ser tokiota como hace cuatro años..). A ver si me sale buen resultado...

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これから四月以降の新居探し。しかし非常勤先の大学があまりにも散在しすぎて,どこにすればよいのやら。。。わりとどの場所からも等距離にある川崎辺りかな。でも東京がいいな(田舎者の憧れか)。。。

lunes, 17 de enero de 2011

Shirasuka nevada, el día siguiente / 白須賀雪化粧(翌日)


Shirasuka nevada, el día siguiente / 白須賀雪化粧(翌日) (1)
Cargado originalmente por matsuken_flk

Nada, sólo quería probar subir un blog a través de este cacharro. Y aprovecho esta ocasión para comunicaros del estado de mi casa del día siguiente a través de las fotos cargadas en el mismo álbum, en las cuales muestra un aspecto muy bonito.

domingo, 16 de enero de 2011

A un día de hace un año

Shirasuka nevada / 白須賀雪化粧 (1)
¡Feliz Año Nuevo! Reconociendo bien el restraso en decirlo, lo digo simplemente porque esta entrada es la primera de este año y, por supuesto, para desear a todos amigos todo lo mejor para el 2011.
Bueno, me ha motivado para escribir esto lo que ha pasado esta mañana, que nevaba por Shirasuka (un pueblito de la Prefectura de Shizuoka por donde vivo ahora) hasta que cuajó ligeramente. En este momento recuerdo que justo hace un año, además el mismo día, que hice un viaje desde Tokio a Madrid terminando un proyecto del Laboratorio de Lingüística Informática de la UAM junto con los compañeros. Y que unos días antes de esto, había nevado muchísimo en Madrid también...

今朝の白須賀は,家の庭が白ばむほどの雪がひさしぶりに舞った。すかさず写真におさめる。
白須賀(しらすか)は,東海道五十三次における32番目の宿場があった町として知られ,遠州・遠江国の最西端に位置する。NHKの過去のとある番組サイトによると,日本橋から約275km地点だそう。東は新居宿(箱根のように関所があった),西は二川宿が並ぶ。おばあちゃんが立ち話で聞いた話では,昔は遊郭とかもあってなかなかの賑わいをみせる歓楽街ぶりだったそうで,現在の新所原あたりからも人が遊びにくるほどだったとか。「それが今じゃ人の流れが逆だにん」というのが祖母の加えたひと言。