¿De qué?

viernes, 5 de agosto de 2011

いろんな感動,一つの自己嫌悪

8月3日(水)。 『コクリコ坂から』(宮崎五郎監督,2011)を作品の舞台である横浜で観てきた。しかも映画にも登場する桜木町駅そばの映画館で。現在の横浜に劇中の町並みや風景を見て取ることはもはや難しいのだけど,それでもいいものである。桜木町駅構内には駅舎の変遷をたどる写真が飾られていて,映画を観る前からなんだかもう物語が始まっているような気分になった。物語は女主人公の海(メル)が朝食の支度をする場面から始まり,途中彼女が通う高校の洋風建築物を大掃除する場面が一つの山場となっている。それらを観て,これはまさに内田センセが指摘する村上春樹の文学の世界性である「料理と掃除」ではないですかと,一人感激するとともに,宮崎五郎監督は,いくら周りにネガティブな批判をする者がいたとしても,「世界のジブリ」の一翼を担うために正しい道を歩んでおられるのでしょうと確信もするのであった。

ところで,一つ大きな見間違いをしていたことに家に帰って気づいた。作品の中で一つの物語のカギを握る,先に触れた洋風建築物であり文化部部室棟である「カルチェラタン」。この名前が文字として何度か画面に出るのだけど,その際になぜだかCartier Latinと終始僕の目には映っていたという話。正しい綴りはQuartier Latin。フランス語。「ラテン語の地区」というのが直訳。フランスはパリの5区と6区の一部あたりの地区を指すそうで,位置的にはルーヴル美術館やノートルダム大聖堂からみてちょうどセーヌ川の南側あたり。ちょっと重なるかどうか微妙なアングルだけど,2008年にパリを訪れたときにセーヌ川にかかる「新橋」Pont Neufを渡るときに撮った一枚を(奥に写るのがエッフェル塔かと):

「カルチェラタン」はスペイン語で,たとえばWikipediaには,Barrio Latinoと紹介されている。フランス語のquartierにあたるcuartelという単語もあって,スペイン語でも「地区」という意味はあるようだけど,日常的にはこの意味で用いられている印象は受けない(あくまで印象の話で,実際はわからない)。手元にある西西辞典(SALAMANCAとCLAVE)にはそれぞれ第一義に「兵営」の意味が記載されている(もちろん「地区」の意味の記載もある)。ちなみに,スペイン語でいわゆる日本語の「カ行」は基本的には子音字cが担うが,[ke],[ki]の音にはce,ciの代わりにqu-の綴り字が現れてque,quiとそれぞれ書かれる(外来語はもちろんこの限りではない)。たまに学習の初期段階で,cuándo「いつ」やcuatro「4」っていう語に対しても過剰に反応してquándo,quatroと書く学生を見受ける。フランス語はまったくわからないのだけど,フランス語でca-/qua-の発音は同じなのか違うのかが気になる。
一方で,僕が勘違いしていた綴りは宝石・時計店で名を馳せる「カルティエ」の方。別にここの品なぞ一つも持っていないのだけどね。最近,疲れ目なのか,また視力が落ちたかなと思うことがときどきあるのだけど,そのせいにしておきたい。(とくに最近は暗がりでモノを読むことをすることが多くなった。これはよろしくない。)やれやれ。

miércoles, 3 de agosto de 2011

本に縁のある日

前期授業が終わって一週間。気づくと8月に突入している。前回ブログを書いてから丸ひと月以上が経過してしまった。ひたすら,3年半ぶりに再開した非常勤生活の授業に追われる数か月だった。

そんな前期も今朝でどこの学校の成績も提出し終えて一段落。野暮用と勉強を兼ねて月一の研究会以外で外大に久しぶりに足を運ぶ。片道約2時間かかる距離だけど,行ってみるとすごくいいことがあった。
図書館の2階,1階から入って階段を上った右手すぐのところにある自由閲覧室に廃棄となる図書がご自由にどうぞとなっていた。ので以下の5冊をいただいてきたという次第:
  • R.ヤーコブソン,1973,『一般言語学』(川本茂雄監修),みすず書房
  • J.H.グリーンバーグ,1973,『人類言語学入門』(安藤貞雄訳),大修館書店
  • W.L.チェイフ,1974,『意味と言語構造』(青木晴夫訳),大修館書店
  • J.L.オースティン,1978,『言語と行為』(坂本百大訳),大修館書店
  • 柳父章,1976,『翻訳とはなにか 日本語と翻訳文化』,法政大学出版局
入館ゲート付近には『ピエリア2011年春号 発見と探求への誘い』が置かれていたので一部いただく。主に新入生・在学生に向けた読書案内冊子で毎年の春に発行,これが通巻第3号だそうな。ちなみに僕の出身・神田外語大学にも『本はおもしろい』という名で同趣旨の冊子がある。こちらは,同大学図書館のサイトによれば,2003年から発行開始となっている。別冊が4冊出ているので,あわせると13冊に上る。

『ピエリア~』を昼食後にコーヒーを飲みながらいくつか拾い読みする。今まで名前は見聞きしていたものの実際にはまったく面識のない先生方の文章。なんだか本人と面と向かって初めての挨拶をするようでドキドキするような(?)感覚。「ホネ・ノ・アル新書」というコーナーの巻頭言には,今福龍太「『新書』再発見に向けて」。岩波新書と光文社カッパ・ブックス版をドン・キホーテとサンチョ・パンサに例える件にはなんだか親近感のようなものを覚え,次の件には思わず同感(できるほど本は読んでませんが):
 けれどいま、新書に託されてきた知性の歴史が忘れられようとしている。その素朴で高邁な志が、もっぱら売上げを旨とする経済原理によって裏切られようとしている。あまりの発刊点数によって書店の棚を占拠し、あまりの種類の多さによって版元の個性やアイデンティティを喪失した本の形態――いまやそれが新書である。それは飽和状態すら超えて過飽和となり、一部では安直な編集で内容の薄い「本ならざる本」を粗製乱造するメディアに成り果てている。
[pp.20-21]
「外大生にすすめる本」コーナーの巻頭エッセイである和田忠彦「批判的思考と実践のために――美学と詩学のすすめ」は正直ちょっとムツカシイ。U.エーコの言葉も引用されてる。が、こんな巻頭エッセイに迎えられる大学の学生は幸せ者だなあなんても思ったりする。同コーナーには、大学院前期のゼミでお世話になった宗宮喜代子先生と、同後期のゼミでやはり(しかも留学に行く前の半期だけという中途半端に)お世話になった峰岸真琴先生による案内もある。前者では、少し前に読了した佐々木正人『アフォーダンス入門』(講談社学術文庫)でわりと紙幅を割いて紹介されていたダーウィンのThe Formation of Vegetable Mould, Through the Action of Worms; with Observations on Their Habitsが、後者では今の僕の移動本になってる『街場の教育論』の著者・内田樹の『街場のメディア論』(と文中には『寝ながら学べる構造主義』)が取り上げられていて、なんだか先生方が少し身近に感じられた。
ほかに言語学関連の人物による文章では、「フィールドノート――わたしの研究余話」のコーナーに音声学の専門家・中川裕による「野外調査と読書」があり、カラハリ砂漠(南部アフリカのボツワナが位置するあたりらしい)でのキャンプ生活による現地調査の厳しさとそこで精力的に活動するフィールドワーカーの姿がありありと目に浮かんでくる。そんなたくましくも「不調法な」中川先生のキャンプ長期滞在中の気分転換になる唯一の娯楽が「寝袋での読書」だそうで、「砂漠のテントの中で読むこれらの文章は、生々しい刺激に満ちていて、想像力と感受性を支配し揺さぶり、味わったことのない濃厚で甘美な精神的経験をさせてくれる。虚構の世界の出来事を綴った文字を読むことによる想像力の刺激が、こんな麻薬的魅力をもち得ることを私はカラハリ砂漠のテントのなかで学んだ」(p.53)という。続く最後の段落で、そんな環境とは対照的に日常生活に溢れる人工的刺激(映像、照明、機械・電子音、etc.)に晒されて生きる私たちは、「言語の理解・解釈の能力の一部を麻痺あるいは鈍化」(ibid.)させているという可能性を指摘する件に深く考えさせられる。